2017年3月31日金曜日

紅茶の歴史 オランダ東インド会社

お茶は紀元前2700年頃には、中国の雲南省で確認されています。茶葉そのものを薬として、食用していた記録が残っています。お茶の葉は体を浄化し、眠気覚ましの効果があると仏教の修行僧などに飲まれ、禅寺を中心に中国全土に広く普及しました。

8世紀ごろ、仏教を学びに中国にわたった留学層から茶の習慣が日本にも伝わり、鎌倉時代以降は寺で茶の栽培が本格化して、武家社会を中心に茶の湯の文化が発達しました。

15世紀から本格化した大航海時代、ポルトガルやオランダが東洋貿易へ乗り出し、日本に布教に来た宣教師によって本国に報告された日本の生活の中にお茶の習慣にも触れられていました。


初めてヨーロッパにお茶が輸入されたのは、1610年にオランダ東インド会社が平戸の商館を通じて長崎の緑茶を輸入することを許されました。

内戦状態にあったイギリスは、1623年平戸から撤退し、その後数十年間、茶の貿易はオランダ東インド会社がリードするかたちで発展しました。オランダ東インド会社は、1636年にはフランス宮廷、1638年にはロシア宮廷にも茶を献上しました。

お茶の人気と共に中国からは茶碗も輸入されました。お茶がオランダに紹介された当初は、ティーボウルと呼ばれる小さな茶碗だけでした。同時に輸入された皿をティーボウルの受け皿として使用し、カップ&ソーサーの文化が始まりました。

2017年3月30日木曜日

紅茶の歴史 ギャラウェイ・コーヒーハウス

コーヒーハウスはトルコのイスタンブールで始まった喫茶店のようなところです。英国では1650年に最初のコーヒーハウスができ、最盛期はロンドンに3000件もあったと言われています。コーヒーハウスのほとんどが入場料1ペニーに、コーヒー、お茶、ココアなどの飲物代一杯1ペニーで何時間でも過ごすことができました。階級差別はありませんでしたが、女性は入店できませんでした。


一般にお茶が紹介されたのは、1657年、エクスチェンジ・アレイにあったギャラウェイ・コーヒーハウスでした。やかんや鍋で煮出したお茶は樽の中に保管されました。そして、随時樽からやかんに移し、大きな暖炉の火で暖めなおしてから提供されました。17世紀半ばはまだ砂糖の輸入量が少なかったため、お茶はストレートで提供されました。器はマグが使われていました。

ギャラウェイ・コーヒーハウスは1666年のロンドン大火で焼け、1784年に再び火災にあい、1846年に廃業してしまいました。

2017年3月29日水曜日

紅茶の歴史 キャサリン・オブ・ブラガンザ妃 (1638~1705)

 
1660年に王政復古があり、チャールズ2世が英国王として即位しました。そして1662年、その王妃となったのが貿易先進国ポルトガルの王女キャサリン・オブ・ブラガンザでした。

キャサリン妃は結婚に際し、砂糖、スパイスと共にお茶と茶道具を持参し、私邸のサマセット・ハウス、公邸ウインザー城に東洋の箪笥を並べて、中国や日本の磁器を飾りました。

キャサリン妃が愛用していたのが東洋の磁器は小ぶりのティーボウルでした。 キャサリン妃はお茶を飲む前に、刺激の強いお茶で胃を痛めないため、バターつきのパンを食べるという習慣も宮廷に広めました。

イギリス東インド会社はキャサリン妃の輿入れでインド貿易の拠点ボンベイを手に入れます。1664年以降、お茶はイギリス東インド会社から英国王室への献上品のリストに載ることになります。

キャサリン妃はお茶に砂糖とサフランをたっぷりと入れ客に振舞いました。英国にお茶を飲む習慣の普及したのはキャサリン妃の功績が大きかったです。

2017年3月28日火曜日

紅茶の歴史 メアリ・オブ・モデナ妃 (1658~1718)

 
ジェームズ2世妃のメアリ・オブ・モデナはオランダ宮廷で花嫁修業をしていました。ジェームズ2世が即位すると、煮出した緑茶をティーボウルに移し、さらに受け皿に移して飲むというオランダ宮廷仕込みの喫茶マナーを英国宮廷に紹介しました。お茶を受け皿に移す習慣は、熱いものを飲み慣れない西洋人にとって、お茶を冷ますための工夫でしょう。

1680年代にフランスで流行ったお茶にミルクを入れるミルクティーを率先して取り入れ宮廷に広めたのもメアリ王妃でした。濃く煮出した緑茶に、輸入品であるスパイスや砂糖を入れて飲む喫茶は贅沢な習慣でした。

2017年3月27日月曜日

紅茶の歴史 メアリ2世 (1662~1694)

 
メアリ2世は幼くしてオランダ総督オレンジ公ウイリアムに嫁ぎ、ハーグの宮廷生活でオランダ式の茶のたしなみも身につけていました。磁器収集が趣味だったメアリ2世は、まだ珍しかった東洋の磁器をたくさん英国に持って帰りました。東洋の品々をコレクションにしたり楽しんだりすることがシノワズリーと呼ばれ上流階級の間で流行します。メアリ2世はハンプトンコート内に磁器を飾りました。

メアリ2世が即位した1689年、イギリス東インド会社は中国と茶の直接貿易が実現します。当時、福建省から茶を輸入していたイギリス東インド会社は、半発酵茶(ウーロン茶)作りの技法を確立します。半発酵茶は英国の硬水やミルクをいれる飲み方に合っていたこと、緑茶より傷みが少なかったことなどから、18世紀後半には輸入量で緑茶を越えるようになります。

砂糖を使ったメレンゲや、果物の砂糖漬けはが茶会の際に提供されるようになったのはメアリ2世の時代からです。

2017年3月26日日曜日

紅茶の歴史 アン女王 (1665~1714)とフォートナム&メイソン

 
メアリ2世の妹のアン女王は朝、お茶は飲むことを好みました。

ケンジントン宮殿のオランジュリーなど、宮殿にお茶を飲むためだけの専用の茶室を作り ました。
アン女王は甘いものが大好きで、宮廷茶会にスパイスで風味をつけた洋梨のパイや、しょうがの砂糖漬けなどを好みました。

アン女王の時代、純銀で大きなティーポットが流行します。アン女王が愛した洋梨型のポットは「クイーン・アン・スタイル」と呼ばれるようになりました。

セント・ジェームズ宮殿でアン女王の従僕として働いていたのがウイリアム・フォートナムです。宮殿内のキャンドルを毎日取り替える作業で、捨てられるキャンドルを売ることを考え、成功しました。1707年、その資金を基に上流階級の人々のニーズに応える店フォートナム&メイソンをオープンさせました。

フォートナム&メイソンは1907年にクイーン・アンという紅茶ブレンドを発表しました。

2017年3月25日土曜日

紅茶の歴史 トワイニング

1706年、トーマス・トワイニングはデュバリー・コートにトムズ・コーヒー・ハウスをオープンしました。

1717年に隣りの敷地を買い取って、お茶とコーヒー、ココアの小売専門に「ゴールデン・ライオン」をオープンさせました。コーヒーハウスには女性は入れませんでしたが、ゴールデン・ライオンには女性も入れたため、お茶の販売は成功しました。

トワイニングのコーヒーハウスでは客が混みあっている際TIPと書かれた箱が登場しました。To Insure Promptnessの略で、早いサービスを保証しますという意味です。追加の2ペンスを箱に入れると、他の客より早くサービスしてもらえます。チップ制度の始まりです。

アールグレイについて
中国を訪れた英国の外交使節団の一員によって持ち帰られたお茶は外務大臣を勤めていたグレイ伯爵に献上されました。グレイ伯爵はそのお茶の香りに感銘し、茶商に命じて、ベルガモットやレモンなどの柑橘類を緑茶やウーロン茶と混ぜて作ったお茶がアール・グレイです。

2017年3月24日金曜日

紅茶の歴史 英国磁器の発達

お茶の消費が拡大するにつれ,茶道具の需要も増えました、イギリス東インド会社の中国貿易船には、茶道具も多く積まれるようになりました。中国や日本から運ばれてくる茶道具は高級でした。

1710年ごろからドイツやフランスでは国産磁器が作られるようになりますが、英国では原材料のカオリンが採掘できなかったため苦戦します。

1740年代くらいからハンドルを取り付けたティーカップが製造されるようになりました。そのため、ソーサーに移して飲む習慣は急速に衰えました。

チェルシー窯
1745年、カンバーランド公爵の支援のもと創立されました。デザインは有田焼の写しです。王室から贈答品の注文が入り、最高級の品物を焼く窯として1770年ごろまで人気を誇りましたが、その後経営困難になり、ダービー窯に買収されました。



ボウ窯
1747年創業。比較的手ごろな価格だったので、中産階級にもてはやされました。デザインは柿右衛門スタイルで、後に中国的な図柄も多く作成されました。ボーンチャイナを最初に作った窯として知られ、その技術は後の英国陶磁器に大きく貢献することになります。1756年に転写プリントによる作品を初めて作ったのもボウ窯です。しかし、1778年に経営困難に陥りダービー窯に買収されました。

ウエッジウッド窯
1759年に創業。貧しい家庭環境に育ったジョシュア・ウエッジウッドは 、労働者階級にも手が届く陶器作りを目指しました。1761年には作業が機械化され、価格を低く設定したクリームウエアを成功させ、クリームウエアは多くの家庭に普及します。シャーロット王妃はウエッジウッドのクリームウエアを高く評価し、「クイーンズウエア」という特別な名称を与え、王妃御用達に任命しました。1773年にはロシアの女帝エカテリーナ2世のオーダーで951点のフロッグ・サービスが製造されました。1774年にはジャスパー・ウエアを発表し、新古典主義の館に欠かせない装飾品となりました。ストーク・オン・トレントとリバプール間を繋ぐマージー運河建設を提案し、1777年に完成しました。

スポード窯
1770年創業。ジョサイア・スポードはボウ窯が研究していた動物の骨灰を利用しての磁器製造に改良を重ね、完璧な白磁に近づけることに成功します。1806年、皇太子はスポードのボーンチャイナを王室御用達に認定しました。


ロイヤル・クラウン・ダービー窯
1775年に発表されたダービー窯の伊万里は高い評価を受けジョージ3世は同年ダービー窯にクラウンの名誉を与えました。

ミントン窯
1856年に王室御用達になります。

ロイヤル・ドルトン窯

ロイヤル・アルバート窯

エインズレイ窯

ロイヤル・ウースター窯

2017年3月23日木曜日

紅茶の歴史 インドでの茶栽培(アッサムとダージリン)

イギリス東インド会社は中国の広東港での貿易権を獲得し、大量の茶を入手することができるようになり、茶の輸入量は爆発的に増加します。伸び続けていく茶の消費量を考えると中国からの輸入だけに頼るのではなく、継続的にお茶を確保するためには英国主導で茶栽培を成功させなくてはならないという意見が出始めます。

1787年、植物の調査研究のためにカルカッタに植物園を建設。英国から多くの植物学者たちが中国に入り、中国から持ち出しを禁じられえている植物の苗木や種の密輸を始めます。植物はインドの植物園に持ち込まれましたが、温帯の中国の茶の木が熱帯のインドで育てるのは失敗しました。


 アッサム種について
1823年、東インド会社の社員で植物研究家のロバート・ブルースはアッサムに遠征、丘陵地帯でお茶の木を発見します。弟のチャールズは時勢茶の種と苗木を持って帰り、中国式製茶方法を進め、1838年にはアッサム種は正式に茶と認められました。アッサムでの茶栽培は1850年ごろから軌道に乗り始めます。そして熱帯地域でも育つ利点から東南アジアを中心にさまざまな国に植樹され、栽培面積で中国主を上回るようになります。

ダージリン種について
1842年園芸氏ロバート・フォーチュンは王立園芸協会からプラントハンターとして中国に赴任します。1848年には東インド会社からの依頼で中国に入り、茶の木を手に入れます。中国と気候の似ているインドのダージリン地方に茶の種を持ち込み、製茶指導を行いました、フォーチュンが植えた木は数年後無事成長してダージリン・ティーとして出荷されます。

中国とのアヘン戦争をきっかけに、イギリスの紅茶はかつての中国産より、インド・セイロンの茶園で栽培されたものへと移り変わって行きます。

2017年3月22日水曜日

紅茶の歴史 ベットフォード公爵夫人アンナ・マリア(1783~1857)

1840年ごろ、ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアは夕方になると自室にお茶を運ばせ、お茶と共にバター付きパンを食べることを日課としていました。

 
上流階級の女性が外に自由に出ることが許されなかった時代アフタヌーンティーは気の許せる友人と屋敷の中でお茶を飲みながら気楽に会話を楽しめる娯楽のひとつとして流行していきました。

2017年3月21日火曜日

紅茶の歴史 ティークリッパー

 
1849年に航海条例が廃止され、英国の港に外国船が自由に出入りできるようになりました。アメリカ製の快速帆船クリッパーは1850年東インド会社の半分の97日という速さで香港からロンドンまでお茶を積んで来ました。


早く届いたお茶は香りが高く美味しいので、国民は新鮮なお茶を求めるようになります。1856年から優秀な成績を残した船には多額の契約金や報奨金が出るようになり、船員の意気が上がり、ティークリッパーレースは年を王ごとに白熱していきました。中国の茶の積み出し港(主に福州)からロンドンまでの航海に要した日数は99日でした。しかし、1869年スエズ運河完成すると、中国から英国間の航海日数は40日になり、自力走行できないクリッパーの時代は終わります。


お茶の歴史と共に大きくなったイギリス東インド会社は中国、インドとの独占貿易という特権を失い、1857年のセポイの蘭を気にインド国内で保有するすべての権限をヴィクトリア女王に委譲させられました。1874年イギリス東インド会社は終わり、1877年ヴィクトリア女王を皇帝に英国領インド帝国となります。

2017年3月20日月曜日

紅茶の歴史 ブルックボンド& リプトン&タイフー&テトリー&ウィッタード

ブルックボンド紅茶は1869年創業。収穫日によって買い付け価格や品質にばらつき画ある紅茶を専門化がブレンドし、一定の品質、均一の価格に調節することで紅茶を安定供給しました。また、決まった量の紅茶を包装して販売しました。小さく梱包することでお茶の香りが飛びにくく在庫管理しやすくなりました。1930年、のちにPG Tipsと改名されたプレ・ジェクト・ティーという新ブレンドを発表し、爆発的な売り上げを伸ばしますが、1968年にユニリーバ社の傘下に入りました。

リプトンは1871年にスコットランド人トーマス・リプトンによって設立されました。1890年からセイロンの茶園を複数経営するようになり 、コロンボに現地会社を設立しました。茶園から工場までロープウェイを設け、安全に、早く茶摘した生葉を運ぶ方法を確立し、茶摘労働者の安全を確保しました。ブレンドや包装を機械化して、効率よく安い紅茶を安定した品質で製茶することができるようにして、現地から仲介業者を通さない産地直送の紅茶を世界中に輸出し始めました。多くの支店を持っていたリプトンは土地の水質によって紅茶の香りや味、コクに違いが出ることに気付き、その土地の水に合わせたブレンドを心がけるようになります。1958年、本拠地を英国からアメリカに移したリプトンは水に溶かすだけで気軽に紅茶が楽しめるインスタントティーの実用化を進めました。



タイフーは1905年バーミンガムの茶商ジョン・サムナーが立ち上げました。タイフーは中国語で医者の意味です。細かく砕いた粉のような茶葉(粉茶)を食料品店ではなく薬局で販売する戦略をとりました。

テトリーは1837年にヨークシャーで創業しましたが、1856年に拠点をロンドンに移し事業を拡大します。1888年からはアメリカに進出。1930年からはティーバッグ製作に従事し、1953年に英国だ初めてティーバッグを発売しました。


ウィタードは1886年創業です。コーヒー、スパイス、紅茶の販売に携わり、1970年代より紅茶販売を強化しました。

2017年3月18日土曜日

ブッシーパークの水仙

テームズ川上流の

ハンプトンの街の近くでバスを降り、

ブッシーパークへ行ってきました。

水仙の花が綺麗でした。















2017年3月17日金曜日

ブッシーパークの椿の花

 
ブッシーパークで一番好きな場所は

椿のトンネルです。













いろいろな椿の花が咲いています。


椿並木を通り、

 鹿を見ながら

公園出口へ。

ブッシーパークの地図