2016年1月31日日曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 縄文文化 (13500BC-500BC)

石の矢じりを使った猪や魚などの狩猟と、木の実や貝の採集が生活の中心でした。人々は集団で力をあわせて働き、収穫はみんなで公平に分け合い、集落単位の自給自足生活をしていました。
 
近くに湧き水のある大地に、地面を少し掘りくぼめて、その上に草葺の屋根を作った竪穴式住居に住み、数軒の家が集まって集落をつくっていました。

表面に植物の繊維をより合わせた縄を転がしてつけた模様がさかんにつけられた縄文式土器(新潟県から出土した紀元前500年のもの)は、低温で焼いた厚手の黒褐色のもろいもので、形はさまざまです。
採集生活は自然条件に左右されることが大きく不安定であったため、人々はあらゆる自然現象を深く恐れ、敬っていました。縄文後期には、女性を模った土偶(中部地方の紀元前2500年ごろのものと、東北地方の紀元前1000年ごろのもの)が多く作られましたが、災いをさけるための呪術的な風習だったと考えられます。
縄文時代の社会に貧富や階級の差がなかったことは、当時の住居の規模や構造に大きな差のないことや、埋葬が共同墓地〈貝塚)で行われたことからもわかります

V&A ヨーロッパ・ギャラリー 1600-1815 ファッション

綿のドレス (イングリッシュ・スタイル) (1785)


ウールのスーツ(1780)
フランスでは、1760年代、イギリス心酔するアングロマニーが現れ。刺繍飾りのついたフランス服飾とは対照的な黒や茶のウールの地味な色合いの乗馬服を好んで着ました。1770年代から80年代には、飲食・スポーツ・ギャンブル・造園にいたるまでイギリス風が流行します。イギリス・モードはヴェルサイユの国王宮廷に対抗する反抗的な服装と思われていました。1800年代になるとフロック・コートとして昼間の略装衣服となります。

 絹のスーツ(1795-98)
 
絹のドレス(1810)


サックーバック・ガウン(ローブ・ア・ラ・フランセーズ) (1765-70)

コートとウエストコート(1780-85)

ウエストコート(1730-40)

バンヤン(1690-1720)

2016年1月30日土曜日

大英博物館のイスラム美術

大英博物館のイスラム文化の勉強会に参加しました。

マホメットは6世紀後半にメッカに生まれました。若い時から隊商に加わって各地を往来して、キリスト教徒やユダヤ教徒に接し、一部の支配者が利益を独占しているため、多くの貧民が苦しい生活を強いられている当時のアラビアを見て、民衆を救うためにイスラム教を始めました。

アラーを唯一の神とする一神教で、他の神や聖像を拝むことを禁止し、アラーの前での万人は平等で階級や身分の違いを否定しました。イスラム教ではマホメットは預言者であり、経典はコーランです。

マホメットの教えは貧しい人々の支持を得ましたが、特権を守ろうとするメッカの有力者の圧迫を受け、622年にメッカからメジナに本拠地を移すことになりました。この聖遷をヘジラといい、イスラム教の暦ではこの年を紀元元年としています。イスラム帝国は、マホメットの死後も後継者たちによって拡大し、8世紀にはアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国になりました。

部屋に入って一番始めに見たのは、陶器製のモスクのランプです。

1549年にオスマン・トルコで作られたものですが、有名な岩のドームにあったものだそうです。岩のドームはアブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした場所に建てられ、692年に完成しました。黄金のドームは11世紀のもので、タイルは1554年に張り直したものだそうです。

メッカに向かって礼拝をしなくてはならないイスラム教徒にとって、どこにいてもメッカの方向を示してくれるコンパスは必需品でした。

これは墓石ですが、お墓もメッカに向かって造られるのだそうです。

ガラスの歴史は西アジアで始まりますが、ヘレニズム時代にシリアとエジプトで発展しました。さまざまな形や大きさのガラス器を製造することを可能にした吹き技法は、紀元前50年ごろにシリア・パレスチナ地方で発明されています。写真は9世紀から10世紀のシリアで作られたガラスの壷。中央は無色の容器に部分的に緑色のガラスを被せその上から線カットで彫るカメオ・ガラス手法。左奥は金と青のエナメルをガラスの間に挟んだサンドウィチ技法です。

アストロラーベは星座早見表のようなもので、太陽、月、星、の位置測定、経度と現地時刻の変換などに使われました。1日に5回メッカに向かって祈らなければならないイスラム教徒にとって、航海中も現地時間を知る必要があったので、イスラム圏で特に発達しました。

メッカの方角が分かるコンパスも必需品でした。

中国とヨーロッパの中間にあるイスラム圏はシルクロードの中継地点で貿易が栄えました。

こちらは元の時代の中国で造られた青花磁器。

こちらはオスマントルコのイズニックで中国の磁器を真似して造ったファイアンス(ガラス質陶器)の皿です。

11世紀にエジプトで作られたラスター彩のガラスのボール。ラスター彩装飾は、銀と銅などの金属化合物を顔料として彩画して焼き付ける技法です。

これは11世紀エジプトのカットガラスです。

これは1232年にイラクで造られた象嵌の水差しです。打ち出された真鍮に文様を彫り、表面に銀と銅を埋め込む技法で、イスラムの金属細工技術の中でも高度な技術が要求さ れました。

私のお気に入りは、12世紀のセルジューク・トルコ(イラン)で造られたミーナーイー(エナメルの意味)陶器。白地に鷹狩が描かれていて、人物がムーンフェイス(丸い顔)なのが可愛い。

13世紀のペルシャで造られたラスター彩陶器は、たくさんの人物像を器面いっぱいに描いているのが特徴です。ラスターは光輝を意味する英語で、白地の陶器に硝酸銀や酸化銅で文様を描き、再度焼成する技法です。

セルジューク・トルコ時代に造られた象嵌の水差し。

15世紀のエジプトの3段重ねのランチ・ボックスには感動しました。日本にもこんな形の弁当箱がありますよね~。

14世紀のマルムーク朝のエジプトでは、モスクのランプのために金張りのガラスのランプが大量に製作されました。
オスマン・トルコでは中国の青花磁器の影響を受けたモスク・ランプが造られました。

1530年ごろのオスマン・トルコでは小さな花と草葉を螺旋状に繋いだ繊細な文様を青で描いたユニークなタイプの陶器が流行しました。

オスマン・トルコといえば、イズニーク陶器でしょう。

本場のトルコより、英国の大英博物館とヴィクトリア&アルバート博物館の方が、イズニーク陶器がたくさん見られるのだそうです。

多彩釉陶器でカーネーションやチューリプなどの草花が描かれているのが特徴です。

水色とか、エメラルド・グリーンとか、

「アルメニアの赤土」と呼ばれる赤色の釉薬が開発されました。

ちなみに柿右衛門が赤色を開発したのはそれから100年後です。

最後はインドのムガール帝国です。ムガールとはペルシア語でモンゴルのことで、イスラム教とヒンズー教が混じった独特の文化です。写真は17世紀に造られた水煙草を吸うための道具だそうです。

1600年ごろ造られた翡翠の亀も面白いですね。ちなみに翡翠はとても硬い鉱物で細工するのが難しいのだそうです。


大英博物館で学ぶ日本の歴史 弥生文化 (500BC-250AD)

はもともと東南アジアでとれたものですが、日本へは紀元前2世紀ごろ朝鮮南部から九州北部に伝わりました。弥生時代には近畿地方から、関東地方、東北地方まで広まりました。日本全土が農耕社会になり、計画的に食料を生産するようになりました。穀物は高床式の倉庫貯蔵穴に保管されました。治水、灌漑など集落による共同作業も発達します。集落内に貧富の差が生じ、集団内の生産の指導や他集団との交渉などをする首長が現れ、有力集団の首長は支配者としての性格を強めていきました。


このころ青銅器鉄器が同時に伝わりました。鉄器は実用に使われ、農具や工具が木製・石製から鉄製へと変化します。青銅器は主に実力者の権威をあらわすもの、祭器や装身具として使われました。

  銅鐸 和歌山 紀元前200年ー20年

 銅鐸 和歌山 (20-250年)
 鏡

銅剣と銅鉾(北九州、紀元前100年)
 
弥生式土器 佐賀と愛知 100-250年
高温で焼き上げた薄手で赤褐色の硬い土器です。模様も簡単になり、素朴な感じですが、ろくろを使うようになったので、形も整い、たくさん作られるようになりました。

石製紡錘車や木製の織機を使って原始的な織物が発達しました。
西暦57年に「倭」の国王の使者が後漢の首都洛陽に派遣され、光武帝より金印を賜っています。り九州北部の有力者が中国と直接交渉を持ち、外交的に認知されていたことが分かります。古代の中国人は日本のことを「倭」と呼んでいました。「邪馬台国」というのも、日本人が「ヤマト」と呼んでいた国の、中国側当て字でした。
西暦239年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の首都洛陽の明帝に使者を派遣し、奴隷と布を献じ、そのお返しに「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡・絹織物を受け取っています。邪馬台国の女王「ヒミコ」というのも、本当は「日神子」または「日御子」または「日巫女」であり、つまり太陽に使える女性という意味だったのではないでしょうか。のちの大和朝廷の時代に作られた神話の中に、天皇家の祖先として出てくる天照大神の話がありますが、モデルは卑弥呼だったと言われています。西暦248年9月5日に皆既日食がありました。これが「天の岩戸隠れ」じゃないかと言われています。太陽に使える巫女にとって、太陽が隠れてしまったことは大変な問題です。それで、責任を取らされて殺されたのか・・・日本一の勢力を誇った女王卑弥呼は、ちょうどそのころ歴史から消えています。

まだ、このころの日本には文字はなく、日本側の記録がないため、この時代の日本史は中国の歴史書を基に作られています。卑弥呼が消えたころ中国は戦国時代に入り、その後約150年間、日本に関する記録が中国の歴史書から姿を消しますが、日本ではその間に大和朝廷による統一が進められていました。

バンクシーの作品 in 大英博物館

 
ショッピング・カートを押す原始人が描かれたこの作品は、2005年、バンクシーにより大英博物館の展示室に勝手に展示されたもの作品です。


バンクシーが3日後に自ら警告するまで、大英博物館は気付かなかったそうです。

13年後の今年、大英博物館は 抗議や風刺がテーマの「I object」(異議あり)という特別展でこの作品を展示することになり、見に行ってきました。

V&Aで見る中世の服

ウールのチューニック エジプト 670-870(大)、450-650(小)

 
 ウールの靴下 エジプト(300-500)

 革靴 エジプト (400-600)